共済コラム
飲水思源 ~故中村医師に学ぶ~
2020年6月26日
連日、コロナ禍の中で奮闘している組合員に謝意と敬意を表したい。特に、医療の最前線である逓信病院や窓口と郵便・物流部門で働く仲間は、まさに「勇者」の姿と重なる。公企業ゆえの宿命なら、せめて特別手当を支給すべきと思うのは筆者だけではないだろう。
さて、「勇者」といえば、JP労組新聞第282号(2020/4/6)の文芸欄に「中村哲の棺小さし枇杷の花(稲葉千尋/三重)」とある。選者は最優秀としたこの句の評を「アフガニスタンの国興しに力を注ぎ、志半ばで凶弾に倒れた医師の中村哲氏に対する追悼の句。その功績に対して『棺小さし』と嘆く作者の心情、悲しみ」と記している。筆者も中村医師たちの活動を若干は知っていた。
それは、NHKで2016年に放送された「武器ではなく命の水を」という番組をたまたま観て、「日本人にもこんな人がいるのか」と衝撃を受け、氏の著書を読んだことがキッカケである(ちなみに、この番組は氏の急逝直後に再放送され、密着取材を通じて日本が誇る偉人中村医師の志を後世に残したと2020年放送人グランプリ準グランプリを受賞している)。そして、氏のご遺体が帰国する際、アフガニスタン政府主催の式典が空港で挙行され、大統領は、「中村さんは偉大な人物だった、その人生をアフガニスタンの貧しい人に捧げた」と弔意を表し、遺族と一緒にアフガン国旗に包まれた棺を航空機まで運んだニュース映像は、まさに「勇者」の姿であった。
氏は、30数年前に現地へ医療支援に入り、献身的に活動を続けた。その活動は、医療支援だけでなく、飲料水が欠乏しているアフガニスタンに1600本もの井戸を掘って水源を確保。また、25キロに及ぶ用水路も拓き、砂漠化した農地に緑を戻し60万人を救ったという。氏は、「誰も行かぬから我々がゆく、誰もやらぬから我々がする。困っている人を前に逃げ出せない。『できるのにやらなかった』では後悔が残る」と、先号に書いた「今だけ、お金だけ、自分だけ」の価値観とは真逆の人である。
また、「『金さえあれば幸せになれる』と『軍備さえあれば安心』は、世界中を席巻している迷信」と断じ、「武器や戦争ではテロはなくならない、テロを生み出す貧困や差別をなくすことが重要」、「平和とは理念ではなく現実の力、だから憲法9条は実行するもの」と説く。氏がご存命なら、ウィズコロナ時代に向けて何を語るのか、残念でならない。ぜひ、「天、共に在り」などの氏の著書を読んで、その生き様から学んでほしい。
氏の偉業とは別ものだが、筆者も25年程前にインドでの井戸掘りボランティアに参加したことがある。当時の全逓栃木地区本部が若手組合員の育成を目的にしたセミナーの最終カリキュラムとして、在インド日本大使館の協力を得て派遣したものだ(当時、労組の国際貢献は画期的なことであった。10年間の継続を予定していたが、インドが核実験を再開したため抗議の意味で第6次で中止となった)。筆者は、第3次の団長として10数名の組合員とともに派遣された。だいぶ前のことなので記憶が定かではないが、当時のインドは、現在とは比較にならない発展途上国で、文化と風習が日本とは全く異なるだけではなく、貧富の差が激しく、都市部では、劣悪な環境のスラム街や路上で暮らす人々が多いため治安が最悪だった。さらに、コレラ潜伏地帯ゆえに飲み水には細心の注意を払う必要があるなど、毎日が緊張の連続だったことを覚えている。また、毎日カレーばかり(といっても日本のそれとは別もの)には参った。
井戸掘りは、首都ニューデリーからバスで5~6時間かけて悪路を進んだコーリー村というところだったと記憶している。村人の家には電気もなく、
水牛の糞を草と一緒に乾燥させたものを「かまど」の燃料にして質素な食事をつくり、家の壁は、同じものを水に濡らして貼ってあるだけといった生活ぶりで、女性は水瓶を頭に乗せ片道5~6㎞歩いて池から水を運ぶことが大切な日課だった。派遣団は、その村に1週間滞在し村人と一緒に作業を続け、やっと水が噴き出た瞬間は、これで彼女たちが少しは楽になると感涙にむせんだことを今も忘れない。
中国に「飲水思源」ということわざがある。アフガニスタンの人々が中村医師の功績を忘れないように、「井戸の水を飲む際は、井戸を掘った人の苦労を忘れない」という教えである。つまり、今の平和な暮らしや労働協約、そして共済制度も、いわば井戸を掘った先人のおかげだ。それは、ある日、突然、振って湧いたものでなければ、ましてや与えられたものでもない。先人が勝ち取った汗と闘いの結晶である。「過去があって今があり、未来のために今がある」。責任とは未来のためにあるものだ。新採者の年休発給日数を減らすなんて信じられない(復活要求をするべきだ)。労働者は権利意識を忘れてはならない。
(Komu-Taka)